第 6号  2005年8月17日
 
2005年8月17日
フォトンベルトについて
 
神から人へ、人から神へ。神から人への祈りは強く、さらにも急ぎて伝えておきたし。さらにも多くの人の御霊に、届けて伝え、知らせたし。
なれど今の世、人々の、心は空しき空洞の、吹き過ぐ風に、聞く耳もなく、目をば開けど節穴如。
眼前にある危難も見えず、眼を晦ますは、金銭、権力。今このときに伝える教えは、唯に人の心の救い。
悩める御霊の奥に潜める、己の力に抑えられぬ、苦悩の根源、時代の犠牲を、早くに救い、導き出して、光を当てて、清めたし。
互いの想念、悪心邪心を、さらに貶め、弱める素は、宇宙の運行、進化を望まぬ、地球支配を目論む者たち。
なれど多くの抵抗あり。悪を退け、地球を守り、豊かな未来を手中にせんと、地球の栄えある明日を描き、心の希望の花咲かせんと、未来の宇宙、地球の外より、地球を支援する力あり。
さにて本日、フォトンベルトその他、宇宙のことに関する問いならん。

フォトンというは光子の集まり。宇宙に偏在、横溢し、宇宙の星々、生物全てに、命の力を送るものなり。
なれど時にそは集まりて、地球の周りに帯となり、地球の生物・人間に、さらにも強き力を与えり。
なれど時に浄化も強く、悪心邪心の深き者、穢れの深き者にはきつく、さらなる禊となりて表る。
光は宇宙の彼方より、銀河も超えし遠き遥かの、距離にて測れぬ無限より、瞬時に広がり、伝わりゆかん。
なれば宇宙は全て等しく、光の恩恵、神の愛にて、守られ、抱かれ、進化せん。
今このときに、地球の穢れ、自然の破壊も甚だしく、人の人知の努力にて、穢れを清める限度を超えたり。
なればフォトンは集まりて、穢れし地球に力を与え、大地を揺るがし、雨を降らせ、地上の穢れを清めんと、初めの姿に戻さんとする。
人の力に清め得ぬ、欲望の渦、憎悪の連鎖を、絶ち切る手段は、地球の浄化。多少の犠牲も止むかたなし。人の目覚めを促すためには。
気付かず悩める、迷妄の者。地獄を好む、煩悩の者。神知と人知を分かてぬ者。宇宙の神秘を悟れぬ者。
全てが禊の対象なり。新しき世に残る価値なき、次元のそぐわぬ魂は、禊ぎて禊げず、分けるのみ。
なれば今は急ぎのとき。人の心を浄化して、悪しき想念、穢れし欲を、清き波動に高めるとき。
最後のときは、残り短し。一人も多くの魂を、欲から放ちて、自由を与えん。
人間界の瑣末な争い。得られる結果は何も変わらず。ただ繰り返す、奪い合い。
全てに絶望、夢もなし。
なれど最後に託せし希望。闇を照らせよ、一条の光となりて、輝かせよ。
神の祈りは光を強め、地上世界に降り注がん。
厳しき禊も神の愛。
豊かに巡る年月も、神の慈愛の恩寵なれど、さらにも深き愛こそは、今の地上の浄化ならん。
この世に起こる現象に、神の思いを読み解けよ。安らぎ、癒され、穏かならん。

さにて本日、悟りを要す今の世と、悟りを拒む趨勢を、フォトンを介して教えたり。
全ては同じ、神の願い。伝えは変わらぬ、一つなり。
よく読み返し、己に活かせよ。さにて。
 
神様に感謝し仏様に感謝せよとのおことばがありますが、仏様とはどのようなお役の方なのでしょうか。そして、神様とはどのように違うのでしょうか。また仏教における仏様とは、神様とは相容れないものなのでしょうか。また、もし並べてお呼びするとき、どのようにお呼びすればよいのでしょうか。
 
さてに一度に多くの問いかな。なれば分けて、それぞれ答えん。
先ずは一つ、神も仏も元は一つよ。人の世界の現象にて、事象に示し表すときの、表れ方の違いなり。
神は一つの大なる意思なり。そこに幾多の役割を込め、一つ一つを現象として、この世に、写す必要あり。なれば仏も、神の願いを、人に写すための働き。この世に始めに表れて、神の教えを説きぬれど、人は誤解し、神と隔てて、異なるものと誤解せり。なれど教えの根本には、互いに同じことを教えし。
仏は人の姿となりて、人の世界に生きて死に、人の化身と考えぬれど、神の御意志をそのまま説きて、神の世界を広げんとせり。
人の世界に広まりて、仏教となる宗教なれど、教えは変わらず。人の昇華と、人の生くべき根本教えし。
なれば宗教宗派は誤り。人の違いや区別を作りて、かえりて争い、いさかいの素。
よくよく学ばば奥にある、教えの心理は普遍ならずや。なれば仏もお役は同じ。神の御意思を物質として、現象として表して、人の目に見え、耳に聞き、理解に易き形とせること。
なれど人は過ちて、どちらが上で、どちらが下かを、飽くこともなく繰り返す。
現象により測りなば、人の尺度は間違いばかり。普遍の尺度もなきものを。
仏の呼び名も、人の世のこと。人が決めなば、それにてよからん。
呼ばれる元の実相は、同じ一つの聖なる神なり。
仏を呼ぶも、神を唱うも、一つに通じ、届きてゆくなり。
仏教信徒、そも可なり。キリスト教徒も同門なり。
全ては神につながりて、正しき道へと通じゆかん。
仏の生前ありし時には、仏も神を敬いて、神の存在実在を、人へと伝え、広げしものなり。
形は変わり、姿は違えど、伝えし元は神なれば。
人の解釈、理解は変わりて、人の世界に合うように、人の尺度に合わされしもの。
なれば仏を信ずる者は、神を信ずと同一なれど、信ずる者は気付かぬのみ。
宗教宗派に囚わるなかれ。人の生まれて死ぬまでに、なすべきことは一つのみ。
道からはずれ、道に迷い、混迷多き世にあれば、人はますます混乱せしを。
一つの道に戻しなば、人は迷わず、安らぎを得ん。
多くに見えて、惑乱し、正しき道を見失い、心の苦しみ悩みを増やし、さらに惑いの底へと落ちなん。
真実なるは一つのみ。なれど現象事象はは多岐になり。それぞれの時、所に応じて、真理は表れ人に示さん。
仏の呼び名にこだわるなかれ。仏を真に信じなば、自ずと神へと通じゆくなり。
神の世界にこだわるなかれ。神の表れ、起りなば、仏も神も同じこと。
人を差別し、隔てるなかれ。人は神の子、平等なれば。気付き悟りし者のみが、誠の幸に恵まれん。
気付かず悩む哀れな者を、救い導く手伝いをせよ。
そもまた神への縁を深めて、人との絆もさらに強まり、教えの光は早くに広がり、ますます栄えて豊かならん。

さにて本日、教えの奥義を答えしを。
教えの奥の神のご意図を、見抜く目を持ち、養えよ。
表面のみに目を奪われ、心を失うことを恐れよ。
さにて、本日、答えを終えん。よくよく精進、努力を続けよ。さにて。