江戸の三十三間堂は三代将軍徳川家光の武芸奨励により、寛永一九年(一六四二)弓師備後という人物が弓術を興隆させるため、幕府より土地を拝領し、京都東山の三十三間堂(蓮華大院本堂)を模して浅草に創建されました。ところが、資金不足のため建設費が払えず、この堂を普請した堺屋久右衛門(後の鹿塩久右衛門)が永代堂守となりました。
 元禄一一年(一六九八)江戸市中で起った火災により焼失しましたが、同一四年に深川の当宮東側に再建され、諸士の弓術稽古のため通し矢が行なわれました。その後、享保十五年(一七三〇)の大風雨をはじめ何回か潰れたり破損したりして建て直しや補修が繰り返されました。明治五年(一八七二)に廃棄解体され、本尊の千手観音は正覚寺(深川二丁目)に移されました。
 三十三間堂のあった地域は三十三間堂町と呼ばれていましたが、明治二年「射手数矢を演じたる地なり」にちなみ深川数矢町となりました。現在、数矢町はありませんが、数矢小学校の名に残っています。

  通し矢には、本堂(約一二〇メートル)と半堂があり、大矢数(一昼夜)・日矢数(一二時間)と時間を決め、矢を放つ本数、的に当たった本数の両様の数を競うものや、百射、千射と放つ矢の数を決め射通した矢数を競うものがありました。京都の記録保持者を「天下一」、江戸の保持者を「江戸一」と称するならわしであったそうです。