当宮の西、江東区役所富岡出張所裏の深川公園内に二つの『歌仙桜の碑』が建っています。
 歌仙桜とは、松尾芭蕉の門人であった度会園女が正徳二年(1712)富岡八幡宮境内に三十六歌仙にちなみ36本の桜を植えたことから名付けられたものです。
以来ここは江戸の桜の名所となり、『江戸名所図会』によると桜の開花のころは、山開きと称し庭園を開放し多くの人々を集めたそうです。

 園女は、寛文四年(1664)伊勢山田の神官秦師貞の娘に生まれ、同地の医師斯波一有の妻となりました。そして元禄五年(1692)夫と共に大阪に移り医業を営んでいました。
 夫の没後宝永二年(1705)には江戸俳壇の宝井其角をたよって江戸に出、富岡八幡宮の門前に住み、眼科医を営みながら、俳壇で活躍、享保三年(1718)剃髪し智鏡尼と号し、同十一年62歳の生涯を終え雄松院(白河一丁目)に葬られました。
現存する墓石には
    秋の月春の曙見し空は
    夢かうつつか 南無阿弥陀仏

との辞世の歌が刻まれています。
 句集としては『鶴の杖』、『菊の塵』などを残しました。
 この「歌仙桜の碑」、一つめは宝暦五年(1755)俳人班象と門前に住んでいた歌人園が桜の木を植え足した際に建てられたもので丸い自然石に歌仙桜と刻んであるもの。

 そしてもう一つは何度か植え継ぎされたものが関東大震災で焼失し、昭和六年(1931)有志により36種の桜を植樹した際に建てられたもので実業家渋沢栄一の揮毫による「園女歌仙櫻之碑」の題字と由来等が刻まれています。
 しかし、この桜も昭和二十年の戦災により焼失してしまい、今はこの二碑の石碑だけが往時の名残を伝えているのです。